これは、わたしの2007年2~4月にかけての第二回インド旅行記です。えらく間をあけて再開してみましたが、また気まぐれに突然終わるかも。
さて、いきなり騙され、笑われるところから始まったヒマラヤ滞在ですが、とにかく去年からの懸案である学校とアシュラムの建設現場を見なければ始まりません。何はさておき、見に行きました。。。全然できてません。一ヵ月後には開校するのに、こんな壁しかできてない建物がどうやって完成するんだろうと、人ごと(?)ながら焦りました。
その後の昼夜を問わない建設作業は、見てるだけでも疲れる日々でした。スワミジも、ドルーブくんも、毎日朝から夜中まで建設現場を行ったり来たり、資材を調達に行ったり。
建設作業といっても、日本のように、指示を出せばちゃんとやってもらえるというような状況ではありません。スワミジが見てなければ、みんな座っておしゃべりを始めるやら寝るやら。タイルはガタガタにゆがんで貼られるし、ドアや窓は明らかに斜めになってます。コンクリートで階段を作ったと思ったら、まだ乾いてない階段を作業員がみんなして昇り降りし、あっという間に崩されてしまいます。どうしてこんな基本的なことがきちんとできないのか、と素人のわたしだって、腹が立ってきますが、腹を立てても何も始まりません。
わたしもせめて何か役に立とうと、スワミジの代わりに現場に行って作業を見張ってみましたが、誰もわたしを恐れてくれず、目の前で平気でタバコを吸って休憩されてしまいます(どうも子供に見えるらしい)。言葉も通じないしどうしようもないので、あとからスワミジに告げ口しておきました♪
それ以外には、毎朝、近所のアシュラムに「ヨガ・ヴァシスタ」という聖典のクラスを受けに行きました。ヨガ・ヴァシスタというのは、ラーマヤーナに登場するラーマ王子の子供時代、教育を任せられた聖仙ヴァシスタが、ラーマ王子に話して聞かせたというショートストーリーがたくさん書かれたものすごく分厚い本です。たくさんある寓話を毎日少しずつスワミに解説していただきました。まずサンスクリット語の物語をスワミが読み、それを地元の人用にヒンディに訳して解説、それから外国人用に英語に訳して解説されます。
これはリシュケシュで受けていたヴェーダンタのクラスも同じで、ヴァッキヤブリッティというシャンカラアチャリヤのテキストを、スワミがサンスクリットで詠唱、その後南インドの言葉タミル語と、英語で解説されていました。解説と言っても、言葉の意味をそのまま言ってもらうのではなく、その言葉や物語の意味するところを、たくさんのたとえ話をはさんでいろんな角度から説明されます。
伝統的に、わたしたちがいかに宇宙(ブラフマン)と一体の存在であり個々の存在ではないかといいう事を説明するために、土器の壷や海の水を例えに解説されることがあるようです。
わたしたちは、壷を見て「これは壷である」と思います。でも、実際には壷という物質は存在しません。壷は土からできてきます。水を入れる容器としての壷という概念をわたしたちが持っていて初めて、壷という存在が認識されるのです。壷は土のある一つの形態でしかありません。壷は「わたしは壷である」と思っていますが、本当は壷ではなく土であり、壷という形態がなくなれば地面を満たしている土の一部なのです。これと同じように、「わたし」は「わたしという肉体」に宿る魂であるけれども、この肉体を離れればブラフマンという宇宙をあまねく満たす存在と一つです。わたしが理解した範囲で大ざっぱにいうと、このような理屈です(たぶん、たぶんですよ)。
同じように、海面に立つ波頭は、実際には海水であって、波は海水が一つの形をとったものにすぎません。波という概念でしかないのです。また、海水をガラスのビンに詰めれば、わたしたちはその水を「海である」とは思いません。でも、実際には、そのビンの中の水は、海を満たす海水と同じ存在です。わたしたちも、ブラフマンと同じ一つの存在です。
こんなふうに、アドヴァイタ=不二一元論がわかりやすく説明されます。いや、わかりやすいかどうかはわかりませんが、とにかくありとあらゆる例を持ち出して、ブラフマンとの一体が理論付けられていきます。理屈っぽい人にはぴったりの、ブラフマンへのアプローチです。これがギアナヨガというものなんでしょうか。
バクティヨガの人は、こんな理屈じゃなくて、例えば、ひたすらキルタン(讃歌)を歌い続けて自分をなくし、神との一体を目指しているのかも。確かにキルタンって、延々と歌い続けて頭が麻痺するまで歌い続けたときにやっと、自分がなくなり何か一体化するような感覚が生まれるような気がします。まあ、そこまでのめり込んで歌ったことなんてもちろんありませんが・・・。
とにかく、「自分をなくす」というところが最初の一歩、という感じでしょうか。
いや、今はヨガヴァシスタの話だった。。。ヨガヴァシスタは、分厚い本なので、わたしがクラスを受けた数日分なんて、ほんの端っこをかじったにすぎません。ちょうどそのとき話されていたことは、いかにこの現象世界がまやかしであり、わたしたちが現実ではない夢の世界に生きているか、ということでした。この世界はすべて、今こうやってヨガヴァシスタを読んでいるわたしたちの存在も、この本も、座っている椅子も、周りの景色も、すべてが幻である、と毎日のようにさまざまな例を持ってきて説明されました。クラスはスワミの講義と、参加しているほかのスワミたちからの質問、それにまたスワミが答えるという形で進んでいきます。
わたしたちには、この目の前の現象世界が現実にしか思えません。でも、わたしたちが眠って夢を見ているとき、それを夢だと認識することができるでしょうか?眠りから覚めたとき初めて、自分が夢を見ていたことに気がつくのです。真実を知るためには、まず夢から覚める必要があります。これが夢である、ということを認識しないかぎり、真実の世界は見えません。
今ここにいて、周りを見渡して、わたしたちに見ることができるのは、せいぜい地平線のところまでです。しかし山を少し登ったとき、今いる場所を上から見下ろすことができます。そのときに見える地平線は、平地にいてみる地平線よりさらに遠くにあります。どこよりも高い山に登ったとき、さらに遠くまで見渡すことができます。これと同じように、低い次元にいては見えるものが限られしまいます。少しでも高い次元に上がったとき、わたしたちは今まで見ていたものを、違う角度からさらに多く見渡すことができるのです。
ちょうどヴェーダンタコースを取って、ちょこっとヴェーダンタの世界に触れたばかりのわたしにとって、このクラスはとても興味深いものでした。
しかし、完全に俗世に暮らすわたしにとって、さらに興味深いのは人間模様。このクラスを巡り、わたしはちょっとばかり人間模様を見させていただきました。そして、ちょっとばかり人間の生々しさについて学ばせていただきました。まあいろいろありましたよ~。こんなとこでは書けないけどさ。わたしの頭の中だけで楽しませていただきます。わたしはここでのクラスも、冗談半分に「苦行」と呼んでいました。
冬のヒマラヤ、皮膚が煤けてくるるようなキツい直射日光の中、サングラスと日傘を片時も離さずに、そんなこんなで過ごしました。ほんとに太陽が目に痛かった・・・。
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